そこには何が待ってるの?

この文章は一部「モアナと伝説の海」のテキストを引用しています。何もネタバレは含んでいない、どころか関係ないことを延々と書いていますが、見ていないストーリーについては一文字も目に入れたくない!という人は、すぐさまブラウザを閉じて、目の前の液晶をたたき割り、砕けた破片で1つ結びにした髪をざっくりと切り落とし、冒険に旅立ってください。もっと広い世界を見に行くんだ…! 

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かくいう僕も、ネタバレを親の仇かというほど嫌っていて、自分が見よう読もう行こうとしているコンテンツの話が出たら話の腰を粉砕して止めにかかるのですが、なんでそこまで固執するかを考えてみると、「その先」を知っている自分になってしまったら、知らなかった自分にはどうあがいても戻れなくて、その矢印は片方にしか矢じりが付いてない不可逆の流れで、その流れにあらがおうとしても自分の無力さをただただ知らされるから、のようです。そのネタバレが別に本編に関係ない、知っていても楽しめる、なんて、その情報もおれにとってはネタバレだから! 本編に関係あるかないかは見て確認したいから!これが面白いか面白くないかすら知りたくないから!それは見て確認したいから!「ラスト1分30秒、あなたはきっとだまされる」それは見て確認したいから! それ言われたら、だましにかかってくる前提で見ちゃうから! てかもうそれ見ないから!

…そう、これは世界を構築し直す物語なのです。

何も知らない、何も存在しない、まっさらな世界を生きていければ良いのに。この世界にはもう新しいことなんて存在しないのかもしれない。ゆっくりと目をつむる、肺に冷たい空気を送り込む、切れ長の目尻、揺れるまつげ、まぶたを開いた瞬間! 眼前に広がる白銀の世界、見渡す限り何もない、地平線まで続く白の景色、自分の頬をなぜる風も目に見えるような、そんな自分だけの世界を信じていたのに。目の前に広がるのは、足跡だらけの、土がむき出しになった地面に、泥と白が混ざった空気。

これが、この景色が、大人になったということなのだろうか。僕も、この中を、肩を落とし、足を引きずり、疲れた顔を貼り付けて、歩いて行かなければならないのだろうか。

この先、この歩いて行った先の終着点に、何があるのか、どうなるのか。“それ”を僕は知っている。生き物が生きる限り、最期にどうなるかを僕はネタバレされている。それでも僕は歩いて行けるのだろうか?

そんな感じの文章を書きました。それではどうぞ。書き出すまでに1000文字もかかる!

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てか、書き出すまでにこの先に何が書かれてるか全然予想できないのでもう何読まされてるんだって感じだよ。予測が広がらないから窮屈で窒息しそうだ。ちょっと予測できる内容を付け足してこよう。

「…そう、これは世界を構築し直す物語なのです。」を付け足した。全然変わらないな。むしろ流れおかしいよ。関係ない話どれだけ書けばいいんだ。別にこの後も特に内容ないけど。いやもう本当に前書きを終わらせよう。おわらんぞこれ。

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チク、タク、チク、タク…

チク、タク、チク、タク…

今も1秒1秒、刻一刻と時間が進み、それに伴い僕は1秒1秒年を取っていて、これを読んでいるあなたも一文字につき0.3秒くらい年を取っている。まぁ僕はアナログ時計は持ってなくて、ケータイの時計を眺めているので、冒頭のチクタクチクタクは実際は聞こえてなくてただのイメージなのですが、年を取るのはイメージではなくて本当に年を取っていて、今もなお僕の細胞は死滅し、生まれ変わり、あなたの細胞は死滅し、生まれ変わっているらしい。年取りたくないなー。打ち寄せる波をずっとひとり見つめていたい。何も知らずに。とは言っても細胞の生き死にをくり返しているうちに、人は「大人になった」という領域にいつの間にか足を突っ込んでいるそうなのですが、僕はまだ子供のままだ。餓鬼だ。僕はことあるごとに「大人になる瞬間を待っている」という話を考えていて、35歳のとある夜、白く輝く満月の夜に僕は大人になる予定なのですが、世間的にというか世の中の仕組み的にというか、そういう僕のあまり好きではないフォーマットでは、僕はとうに大人になっており、大人になってから干支も一周回ってさらにちょい進んだくらいの時間が経ってるです。経ってるです? 語尾をあやふやにすると幼いキャラになれるはずなのだが、僕はいぜんとして幼くないままで、実際の僕は酒も飲めるしたばこも吸えるし白い粉を鼻から吸い込むことも出来る、それだけ細胞の死滅をくり返しているわけです。

白い粉はラムネを砕いた物です、念のため。

むせるわっ! 粉状ラムネ鼻から吸い込んだらめっちゃむせるわっ!!

もし20代前半の僕が、今の僕を見たら、こんな大人になりたいな、とか、こいつの子供として生まれてこなくて本当に良かった、とか、何か色々感じる前に「これが、大人? こんなんが?」みたいな、そんな感想を持つ気がして、それって僕が20代前半の時にこれくらいの年代の大人に感じていた印象で、ということは僕はあの頃に眺めていた大人になっているということになるのかもしれない。なんかそれってやだな。でも年齢関係なくいいなーと羨望したり自分もああなりたいという憧れを、各世代にしょっちゅう感じるので、ただ僕がのんべんだらりと生きて、何も捉えずに今に至っているだけで、ちゃんと苦労をして生きている人はちゃんとその通りの大人になっていくのだろう。僕はまだまだ先があるはずで伸びしろだけが目の前に広がっている、と信じている。信じたい。

「この集団で最底辺な僕です」という自己紹介はずっと昔から色々なところでやっていて、いつからやってるのか考えてみたら、たぶん中学二年生からやっている。僕は色々な出来事を自分の中学二年生の頃に繋げたがるので、大人の中二病ってこういうことなのかもしれないけど、僕の根元があるのは中二の時に考えたことで、僕の学力は中二の頃に頑張って加速したの時の速度の惰性で、僕の趣味は中二の時にはじめたことの広がりで進んでいる。

中二の時に通っていた塾で、特進クラスのような、ちょっと学校で成績の良い子たちが集まるクラスに入れてもらったのだけど、そのとき自分よりもテストの点数がいい生徒が何人かいたのだけど、なぜか自分がその特進クラスに入った。周りからはなぜお前が、と思われていたかどうかはわからないが、そのクラスの中ではもちろん僕は最底辺だった。それでも素直な僕はそこで勉強し課題もこなし、自分の学力でギリギリ入れるか入れないかの高校を受験し合格して入学した。だから僕は高校にいっても最底辺だった。大学も同じ感じ。なぜ入れたのか自分でもわからないが、まぁ運が良いので入れたのだろう。そうだそうだ、繰り上がり入学をしたんでした。入学式の数日前に急に連絡が来て、繰り上がり合格なので三日以内に入学金を振り込んでください三日以内に振り込まれなかったら次の人に繰り上がります、といわれ詐欺なのではないかとビクビクしながら入学金を振り込んで、入学式に自分の名前がない可能性も3割程度もって入学式に行ったんだった。名前はあった。つまり僕は大学でも最底辺だった。就職も同じ。思えばずっとそうだ。

僕は最底辺だった。そう思い込んでいるだけで違うよ、と言ってくれる人がいるかもしれないが、そんなはずがない。こんな僕が最底辺でないなら、ここからさらに落ちる余地があるということで、そんなのがあるなんて考えられない、考えたくない、ずっと深い深い海の底から、わずかに揺らめく光を目指して手を伸ばしていたい。年取りたくないなー。

僕は毎日モアナと伝説の海を聞きながら生きているのですが、その中でこんなセリフがあります。

「人はね、なりたいと思っても、出来るって思っても、やるべきじゃないこともある」

モアナのママが、禁止されている海「珊瑚礁の向こう側」を望むモアナに向かって言うセリフです。

なんて悲しい。こんな言葉を言われたら、グレるわ。モアナはこのカウンターとして映画のテーマソングを歌うので、映画の中のテーマの1つなのだろうと思いますが、それにしても親が子に伝える世界の残酷さみたいなのあっても良いと思うしそれが先を生きる者の使命みたいなのもあると思うけど、でもちょっときついよね。八歳の女の子にだよ。大人たちが諦めてきた世界を、子供に託すのも、子供から奪うのもちょっと違くないっておもう。一番身近な「他人」として、それは踏み込みすぎてないだろうか。世界を奪わないでほしい。世界があることすらも知らせないで欲しい。それは自分で見つけるから!

僕も向こう側へ。そこには何が待ってるの?

あと関係ないけど、モアナがむらのおばちゃんにココナツの相談を受けて、木を植える場所の指示を出すんだけど、そのおばちゃんが「立派になったものね」っていうんですが、立派になったものねってちょっとひがんでません? 立派になったわね、でよくない? ものねって…本当は自分の娘を村長にしたかったのかな。でも結局世襲制には逆らえずモアナが村長になりそうで生意気にココナッツ植える場所指定してきて「立派になったものね」っていったのかな。とにかくみんなモアナ買うか借りるかして見てね。

やっと終わった。長かったな。そうそう長いと言えば――

ってもういいね!