「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」見ました

この主人公は僕か?

 

僕は、当事者ではない出来事に心の領域を割く能力が著しく低い。自分の線の内側についてはどんな出来事でも知っておきたいし考えたりしたいが、線の外側にはあまり関心がわかない。むしろ情報すら入れたくない。

 

これは昔からそうだったみたいだし、どこかからは意識的にその要素を強化したように思う。自分じゃない誰かの食事風景を見て、さも自分が食べたかのようにイメージする機能が人間にはあって、それが人間だけでなくお猿さんにも備わってると知ったとき、やはり自分には根本的に何かが足りない、大切な何かが欠けてると思った。

誰かの迷いを想像できず、誰かの苦労を知ろうとしない。予想はするが同じように実感が出来ない。ペラペラの紙の上での出来事、数値だけの移動。

 

感情の起伏も少なめだし人生は割とすっと流れてきた。

多少の山、受験や人間関係はあった気がするが緩やかすぎて家の近くの名もなき盛られた土山程度の高低差、筋肉痛にもならないまま大人になった。多分ぎゅっと圧縮したらみんなの5年分くらいしか生きてなくて年齢は大人だが未だ子供。

大人になる日をずっと待っている。

予定だと35歳で大人になるはずであと2年足らずで一体何が変わるのかという気もする。

壁にぶつかったこともない。

いつか苦労するときが来ると言われてきたが未だ僕の目の前はスルスルだ。人生において頑張った試しがないので、頑張り方がわからない大人になってしまった。心底頑張った、ダメだったけど悔いはない、みたいなのをいつかやってみたい。

 

そんなだからかもしれない、この主人公に強く共感した。

「普通はこうなのだろう」という予想した答えがある。だから僕らにとって日常はただの答え合わせみたいなものなのだ。

小さい頃は簡単だった。答えを書くことが生きることだった。あるときから問いの意味を考えるようになった。意味なんてきっとないのに。考えなければもっと別の「何か」に力を使えるのに。その何かが何なのかもわからず、そもそもあるかどうかすらわからないのに、どうしようかどうしようかと悩み続けている。同じ場所を周り続ける。

 

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

 

逆に、世界にはまだこんなにも自分の知らない色がある。それを教えてもらったとき、僕の世界は新しい意味を持った。

 

 

うっちーにお勧めしてもらって見た。面白かった。(ありがとー!)

なんで自分がこの映画を「Netflixに出たら見たいもの」リストに入れていたのか全く思い出せないのだが、何かCMとか見て感じるものがあったのかもしれない。会社で「主人公に共感した」という話をしたら、それ外で言わない方が良いよと言われた。

よく「それ外で言わない方が良いよ」と言われるけどいつもすぐ外で言っちゃうね。