屋上のカラス

これは僕の世界の話なんですけど、やる気がある日とない日があるんですよ。日というか週単位くらいの形かな。これってきっと誰にでもある気がしていて、誰もがとりゃーっとなったりぐんにょりなったりをくり返しながら日々を過ごしているのかなと思います。この「とりゃー」どうしの人がやり取りするのは良いと思うんですよ。色々なことが楽しいことに向かってそれじゃあやりますか! とお互いにワクワクしながら立ち上がれば良いだけですよね。ぐんにょりどうしでもまぁいいですよ。だるいっすねとかいいながら今日はもうやめときますかという感じで怠惰に次へ繋げばいいですよ。

問題はとりゃーとぐんにょりがかち合った場合。とりゃーは、なんでこいつこんなやる気ないんだいっちょバシッとしてやるか! ってなるし、ぐんにょりはこの人なんでこんなに前のめりなんだ面倒だな…ってなるわけですよ。これをなんとかお互いにまぁそういう日もあるよね、とお互いがのぞむ位置にあわせ合う形に出来ないかなと、思ってます。だってとりゃーがぐんにょりしてる日だってあるし、ぐんにょりがとりゃーっとなってる日もあるわけじゃないですか。だったらお互いに帳尻あわせ出来るような気がするのですが、これがなかなか難しいみたい。

この相手の状態しかみえてないことを、自分がその状態になっていないかを振り返るために僕は度々「屋上のカラス」の話を思い出すようにしてます。

僕はマンションが乱立するマンモス団地で生まれ育ちまして、そこは同じマンションがコピペみたいに繰り返し並んでいるタイプの団地ではなく、マンション毎に見た目も形も内装も違う、階数の高さも違う建物がひしめき合うタイプの団地でした。 夕方になると五時の鐘がなり、子供たちは友だちの家からそろそろ帰るかなとなり、学童からこどもがそぞろ出てきて、五時の鐘は夕焼け小焼けで、これを聞くといつもあの暗くなりきらない赤く染まる空を思い出すんですけど、とにかくカラスが多いんですよ。団地ってどこもそうなのかな。そこまで新しい団地というわけではもうないのかもだけど、団地内に学校があったりスーパーがあったりと整備されてて、電柱も地面の下に埋めてあるようなかんじで、団地内にはほぼ電柱がないんですね。

そしたら困るじゃないですか。カラス。本当は電線から人を見下ろしつつどうやって木の実を割ってやろうか車でも使うかって感じで電線に止まるはずのカラスが止まる場所ないじゃん! ってなるわけですよ。困るじゃないですか。じゃあもうどこ行くんだってなったら屋上に行くしかないわけですよ。マンションいっぱいあるんで、屋上はいきほうだいなんですね。

で、カラスってゴミあさったりするしちょっと迷惑な存在としても認識されてると思うんですけど、僕は好きですけど、まあいっぱい集まってたむろして、カー言ってたらちょっとあそこ嫌だなと思う気持ちも分かるんです。

んで、僕の住んでたところは14階建てのマンションの上の方で目の前にそれよりは低い、六階建てだったかな、の別のマンションがあるんですけど、知り合いがその六階建ての屋上に止まってるカラスをみて言うんですよ。 「いやだわー」って。まぁカラス自体を懸念するのはいいですよ、ゴミあさるし子供につつきかかったら危ないし、僕は好きですけど、まぁ分かりますよ。でも「あそこはカラスが溜まってるからいやだわー」は違うと思うんですよ。だって確かにそのマンションの屋上にはカラスがたむろしてるの見えますが、それは自分の今住んでるこのマンションも同じはずなんですよ。見えないだけでベランダから自分の屋上見ようとしてもあかね色の空が広がってるだけで見えないんですけど、確かにこのマンションにも屋上があって、ということはそこにはやはりカラスがたむろしているはずなんですよ。げんに他のマンションから自分のマンション見るとやっぱりたむろしてるんですよ、カラスが。

見た目も形も内装も違うマンションですけど、屋上はあってそこにはやらせはり同じようにカラスが止まっている。この当たり前を忘れてただ自分の視界に入ってくる情報だけで相手の状態を判断して自分を見ない。これは上手くいかなそうですよね。

相手の状態をみて自分も同じだろうと推測する。今は違うかも知れないが自分にもそのタイミングがあるし、その相手は今その状態なんだろうと推測する。 その推測からいかに自分と相手の状態を良いところにかち合わせようとし合う気持ちが、とりゃーとぐんにょりが一緒に進むために必要なのではないかな、と思ってます。

今週の僕は非常にぐんにょりです。ぐんにょり。